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セッション [Prime Video]

以前から気になっていた映画が Amazon Prime Video の見放題リストに入っていたので鑑賞しました。

セッション

ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督と名優 J・K・シモンズが助演(実質的には主演と言って差し支えないと思う)というところで注目していたのでした。

ジャズドラマーを目指す青年アンドリュー・ニーマンが、所属する音大で最高峰の指揮者テレンス・フレッチャーに才能を認められるものの、そこからの指導が地獄のような厳しさで…という話。「厳格なマネジャー」という点では J・K・シモンズらしさを存分に引き出す役どころですが、今までの J・K・シモンズのイメージすら覆すほどキレた役。指導中に怒号は当たり前、罵声や放送禁止用語、果ては椅子まで飛ぶ激しい指導。それは邦題にある『セッション』という愉しげなものではなく(この邦題の意味はラストシーンでようやく理解できました)、原題『Whiplash(ムチ打ち)』をそのまま当てるのが妥当と感じます。
私もかつて言葉の暴力や苛烈なプレッシャーでメンタルをやりかけた経験はあるだけに、このフレッチャーの強烈な圧力は見ていて辛いものがあります。しかし一方で「自分ができることは他人にもできて当然」というような要求を誰かにしたことがなかったかと言われると否定もできないわけで、自分が受けてきたプレッシャーと他人に与えてきたかもしれないプレッシャーをいろいろと思い浮かべながら観てしまいました。

一流のアスリートやプロ棋士の名言として「報われるか分からない努力を続けられることそのものが『才能』である」とか「努力を努力と思っているうちは真の努力ではない。人並み以上の努力を当たり前に継続できる者だけが何かを成し遂げることができる」という話を聞くことがあります。それ自体は確かに納得できるものだし、何者かになるために自分が自分に課す言葉として重みがあるものだと思いますが、果たして自分の教え子や後輩、あるいは子どもに常識外の努力を強いるための言葉として使って良いものかどうか。この作品におけるフレッチャーの指導は指導というよりもむしろ、自分が理想とする音楽を作り上げるための駒として教え子たちに強要しているものであり、ハラスメントに他なりません。フレッチャーは果たして教育者として正しかったのか。
が、芸術にせよスポーツにせよ世の中に影響を与えるほど強烈な成果というのは稀有な才能と非常識なほどの努力や無理の結果生まれることが多いのも事実。トップレベルであるほど踏み台や噛ませ犬となる「犠牲」も必要悪だし、そこに集まってくる人員も覚悟はできているのかもしれません。私(少なくとも今の年齢の)はそんなのはまっぴらごめんですが…。

そんなフレッチャーの自分の理想とする音楽への執着と、それに振り回されたニーマンの関係がどうなるかは、ラストシーンで示されます。フレッチャーの強烈な指導はニーマンという才能を開花させたけど、そこまでに多くの若者の人生を滅茶苦茶にしてきたであろうことを考えると、果たしてそれは良いことだったのかどうか。ジャズ界という括りの中ではそれは良かったことなのかもしれませんが。
ジャズを扱った映画ではありますが、人の生き方や価値観について考えさせられる映画でした。

そういえば本作も『ラ・ラ・ランド』もジャズをストイックに追い続けた男の話という点では共通点があるし、本作でフレッチャーを演じた J・K・シモンズが『ラ・ラ・ランド』ではセブ(ライアン・ゴズリング)にジャズを禁じクリスマスソングだけ演奏させる役どころというのも洒落が効いていて面白い。いろんな観点から楽しめる作品だと思います。

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