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小説 機動戦士ガンダム

今さらかもしれませんが、小説版の『機動戦士ガンダム』を読みました。

富野由悠季 / 機動戦士ガンダム I・II・III

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実は私は小説家としての富野由悠季はあまり好きではなくて…『逆シャア』や『閃ハサ』の小説を読んだ後もちょっと微妙な気持ちになっていたものでした。この小説版ファーストガンダムは何年か前に Reader Store のセールで勢いで買ったまますっかり忘れていたんですが、この春先から出張や長時間の移動が多かったので、そういえばタブレットのストレージに入れっぱなしだったのを思い出してようやく読んでみたというわけ。

読んだことがなくてもガンプラ等の説明文を通じて、小説版では最初のガンダムは大破してアムロが G-3 ガンダムに乗り換えるだとか、シャアがザクの次にゲルググやジオングでなくシャア専用リック・ドムに乗るだとか、途中でアムロが戦死してしまうため『Ζ』以降の作品には繋がらないだとかいったストーリーの概要はある程度知っていました。が、改めて読んでみるとアニメ版とは随分違う内容になっているんですね。
まずアムロ(をはじめホワイトベースのクルーの大半)が民間人ではなく志願兵だし、ホワイトベースは地球に降下せず宇宙だけで物語が展開されるし、けっこうな序盤のうちからララァが出てくるし、なんならアムロとシャアが和解してしまうし。アニメ版がアムロを中心とした少年たちの成長を描いた群像劇だとするならば、小説版はニュータイプ論の掘り下げが軸、というように主題からして違います。私はホワイトベースの足跡や物語の結末自体は大きく変わらないだろうと高を括っていたので、これにはちょっと驚きました。


主題であるニュータイプ論に関しては、主に戦場におけるニュータイプ同士の感応がどういうものであるか、アニメ版ではアムロとララァの交感(とラストシーンの脱出劇)くらいしか描写されていなかったのが、小説版ではアムロとララァ以外にも何人か具体的なニュータイプの描写があり、人によってあるいは状況によって感応のしかたが異なるとして描かれています。またニュータイプ的な感応を経て、アムロが自分自身が肉体や本能に縛られた凡人であることを自覚する描写もあり、このあたりはなかなか深い。後続のガンダムシリーズで徐々に掘り下げられていったニュータイプ観が、この時点である程度具体的に示されていたというのは面白い気づきでした。
また、後続のアニメシリーズにストーリー上は繋がらないものの、設定や描写上で繋がる部分もちらほら。『Ζ』でアムロがフラウ・ボゥに「まだセイラさんのこと好きなんでしょ」と言われるシーンは、ファーストではあまりそういう描写が見られなかったのに何で?という感じでしたが、この小説版での関係性が間接的にでも下敷きになっている、ということであれば納得できる話。そしてこの小説版にだけ登場するニュータイプのクスコ・アルは『Ζ』の強化人間フォウやロザミアに通じる不安定さを持っているし、いろんな女性の間でフラフラするアムロはカミーユに重なるものがある。男女関係をネチネチ描写するところも『Ζ』っぽいし、全体的にこの小説版はファーストのリメイクというよりも『Ζ』の下敷きなのだと考えたほうが自然な気さえします。こういう青臭い男女観(女性観?)や体制批判的な視点が富野御大の持ち味で、アニメ版ファーストの作り方がむしろ例外だったのかもしれません。

それから、富野作品ではありませんが『UC』がこの小説の影響を大きく受けているというのも特筆すべきでしょう。『UC』であの人が仮面を最初に外したときのあの台詞はこの小説から引用されたものだったし、コロニーレーザーのコードネームが「システム」というのはこの小説版のソーラ・レイのコードネームを受け継いだものだし、マリーダが死んで思念体化する表現はこの小説のあのシーンを土台にしているし。福井晴敏氏が単なるガノタを超えた富野オタだということは知っていましたが、『UC』でアニメシリーズのみならず小説からもこんなに引用していたとは。

この小説版が純粋にいち SF 小説として面白いか?と問われれば難しいところですが、少なくとも宇宙世紀を舞台とするガンダムシリーズをより深く理解する、という意味では読んでみて良かったと思います。

MG 1/100 RX-78-3 G-3 ガンダム Ver.2.0

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