スポンサーリンク

祖父の思い出

昨夏から体調を崩して療養していた母方の祖父が、一昨日他界した。
今日葬儀を終え、荼毘に付された。私と同じ巳年生まれの四回り違いで、享年 81。

生きてきた間ほとんど医者にかかったことがないという、健康体そのもので医者嫌いの祖父は、体調を崩してからも「どこも悪ない」の一点張りで、秋に入るまで医者にかかろうとしなかったらしい。認知症が進み始め、ようやく検査をした頃には、胃癌がもう末期症状だった。病院に入ってから亡くなるまで三週間もかからず、親類が「これから見舞いに行こうと思っていたのに」と口を揃えるほどの、呆気ない最期だった。
今月の初め、「もう元気な顔が見られるのはこれが最後かもしれないから」ということで、急遽一泊だけ帰省したのがほんの 10 日前。もしかしたら祖父は、私たち孫兄妹が最後に顔を見せるのを、待ってくれていたのかもしれない。

私は、父方の祖父母は私が 8~9 歳のときに相次いで亡くなって以来、血縁ではほとんど不幸がなかったので(唯一、私が 18 歳の頃に母方の曾祖母が亡くなったが、私が進学のために上京した直後で、葬儀と私の入学式が重なったか何かで死に目には会えなかった)、実は私はこういうことにあまり慣れていない。
ここ数年、帰省するたびに「祖父母の顔を見られるのはあと何回かな」と考え、祖父の元気がいよいよなくなった冬に入ってからは気持ちの準備はできていたつもりだったが、いざそのときを迎えてみると、悲しいとか辛いとかそういう感情よりも、単純に、とても寂しいと感じた。


祖父はとにかくせっかちな性分で、例えば一緒にラーメンを食べに行っても、自分が先に食べ終わったら「先に車乗っとるぞ」と会計を済ませて自分だけさっさと店を出てしまうような人だったから、最期も急だった。

祖父は聞くところによると子ども好きだったらしいが、天邪鬼というか、感情を素直に表現しない人で、遊びに行くと決まって「何しに来たがよ」と言われた。私がそれがただの照れ隠しだということに気づいたのは、中学に上がった頃だっただろうか。もしかしたら、私の性格の天邪鬼だったり皮肉だったりする部分は、あの人に似たのかもしれない。
私や妹が大きくなってからも、憎まれ口はよく叩いたが、それ以上に下らない冗談を言って私たちを笑わせるようになった。例えば、遊びに行った帰りにはよく「風邪引きそうになったら、押され!」と、仕様もない駄洒落を言われたものだ。
そういえば、祖父は若い頃から「三年日記」(三年間の日程が並んで書き込まれている日記帳で、去年一昨年の同じ日に何をしていたかが一目で分かるようになっている)をつけるのが習慣だった。シンプルにその日あったことを記していただけだったが、私自身がある種そんな習慣まで受け継ぐとは、思いもしなかった。

幼いうちに父方の祖父母を亡くし、両親が共働きだったので、子供の頃は昼間は妹と二人で過ごすことが多かった。必然的に、夏休みや冬休みには母方の実家の世話になった。高校が祖父母の家に割と近かったので(とはいっても徒歩だと 30 分以上は歩く距離だ)、高校時代はときどき一人で遊びに行ったりもした。

高校時代で憶えているのは、高校の合格発表のとき、両親が仕事で行けないので、祖父の働く工務店のトラックに乗せられて見に行った。それなりの進学校だったので、「自分がこの高校の門をくぐることがあるとは思わんかった」と、嬉しそうにしていた。その後、二人でラーメンを食べた。
祖父は大工兼農家だったので、高校の体育大会のとき、応援用の大道具を作るのに、工務店から角材を用意してもらったりもした。まだ明るくなる前の高校に、トラックで材料を運び込んでもらったことは、今でもよく憶えている。
もちろん、現在の私の実家は祖父が現場監督をして建てたものだし、少年期までに食べて育った米や野菜の多くは、祖父母が作ったものだ。私がここまで育ってきた人生の根幹の部分は、祖父母のおかげであったと言っていいかもしれない。

私が成人して酒を嗜むようになってからは、帰省した折に祖父と杯を交わすようになった。酒を注ぎながら、「昔から『男は涙こぼしても酒こぼすな』と言うてのう」と言われたものだったが、お通夜の夜に祖父の棺の脇でその言葉を思い出し、酒だけはこぼさないように注意深く杯に注ぎ、独りで祖父に乾杯した。

祖父の最期は、この半年あまり毎日介護を続けていた母に手を握られたまま、幸せそうな顔をして、静かに逝ったらしい。確かに、対面した死に顔は、数本だけ残った白い歯が少しこぼれていて、笑っているように見えた。
直接の死因は胃癌だったが、年齢を考えれば天寿を全うしたと言って良いと思う。せめて救いだったのは、食欲がなく体力が衰えていく以外には痛みなどの自覚症状がなく、最期までほぼ苦しむことがなかったらしい、ということだろうか。
ひとまず、長い間一人で介護を続けてきた母には、ここまでご苦労様でした、ありがとう。と言いたい。

爺ちゃん、今までありがとう。遠い未来に、そっちでまた酒でも酌み交わそう。

コメント

  1. daizo より:

    ご愁傷様です。

    私の祖父は戦争で亡くなっているので会ったことも
    ありません。こんなにたくさんの思い出があるなんて
    うらやましい限りです。

    お孫さんにこんなに愛されて幸せな方だと思います。

  2. HA-MA より:

    いつもブログ楽しく拝見致しております。
    この度はご愁傷様でした。

    私も個人的事情から両親の死を知らされず、一昨年兄が他界するまで身近な死というものとあまり相対する機会がありませんでした。
    妻も家族もいない私は一日にして天涯孤独となってしまいましたが、同時に自身のDNAの中に行き続ける家族を実感致しました。
    これからは私が生きて家族を体現して行かねばと…

  3. B より:

    >daizo さん
    ありがとうございます。今まであまり意識したことがありませんでしたが、言われてみれば両方の祖父母の記憶がある(母方に至っては曾祖母の記憶もある)私は幸せなのかもしれません。
    特に祖父は 48 歳でおじいちゃん(祖母は 45 くらいでおばあちゃん)になったので、おかげで思い出はたくさん作らせてもらえました。

    >HA-MA さん
    はじめまして、コメントありがとうございます。
    私も、親の仕事の都合で高校時代から両親と離れて暮らしていたので、どちらかというと家族のあり方とかを考えたことがなかったのですが、結婚して子どもが生まれて「『自分の』家族」という意識ができてからは、仰るような「自身の DNA の中に生き続ける家族」というのを感じるようになりました。
    家族というのは面倒なことも多いですが、良いものですよ。

スポンサーリンク